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【ハリー・ポッターと呪いの子】物語が渡してくれる「あい」のはなし

※この記事は2022年東京版についてです

 

 

二部制から一部制になったことによってここが変わってて好きだーーー!!!ということを脚本版・東京版を比較しつつ独断と偏見と個人の意見でやっていきます。
思いっきりネタバレです。
ちなみに東京以外の呪いの子は観たことありませんのであしからず…。

 

▼はじめに 二部制、一部制とはなんぞ?

元々「呪いの子」は第一部、第二部がそれぞれ約3時間、合計6時間ほどの長い舞台でした。
それを、まぁ色々あって短縮し3時間40分に収めたのが「一部制呪いの子」です。
東京版はこの一部制呪いの子で上演中。
呪いの子は脚本が出版されているので二部制についてはこちらを参考にしています。

 

 

▼アルバスとスコーピウスという「ふたり」

1部制の最大の変更点、それは物語のテーマである、と感じます。
具体的に言うと、大きなテーマである「親子(ハリーとアルバス)」が「アルバスとスコーピウス」になりました。
もちろん元の脚本でもこのふたりの関係は本筋なんですけども、それをより強調しているのが一部制呪いの子です。


二部制は作品自体が長いのもあって、様々な関係やテーマが盛り込まれています。
これを短縮するにあたって、ある程度焦点を絞る必要があったのだろうと感じます。
書き出すときりがないですが、二部制では人物関係が対比で描写されているのでより一層複雑でした。
元々ハリーポッターシリーズを知っている人が多いという前提もあったと思いますが、とにかく人間関係と作中で描く関係性が多かった。


ハリーとアルバス⇔ドラコとスコーピウス(⇔ハーマイオニーとローズ)
ハリーとデルフィー⇔ヴォルデモートとアルバス
ハリーとジニー⇔ロンとハーマイオニー
などなど


それを、一部制では相当削って「アルバスとスコーピウス」の関係強度を上げている。
私はこの変更がとても好きでした。
「ふたり」が、ふたりだけの大切な関係性を築き、そしてそれを物語として肯定してくれる変更でした。

 

 

 

・恋愛描写を削除したこと

二部制では、アルバスはデルフィーへの恋心を、スコーピウスはローズへの恋心(あとちょっとだけポリーも(笑))を描いていました。
これが一部制ではほぼ全て削除されています。
デルフィーへの恋心だけはちょっと残っていますが、どちらかというと「年上の女性への憧れ」のように感じます。二部制では「年上が好みなんだろ」とからかわれますが、そういうこともなく、ただ単純に男の子なら誰しも憧れるようなニュアンスになりました。
スコーピウスからローズへの恋心も、ふんわりとした憧れ程度になっています。

その上で、「第四幕 第14場 ホグワーツ 教室」のシーンが全然違ったものになりました。


二部制では「ダンスパーティへ誘う」「結婚」「ガールフレンド」など、明確に恋愛を描いていますが一部制では削除され、スコーピウスはローズに「友達になってください」と言って断られる流れになっています。
また、そのあとのローズの「おかしなことをそのままにしておくと、おかしなことになるわよ」というセリフが変わり、仲良く話しているアルバスとスコーピウスに対して「いいんじゃない、堂々としていれば」と言います。


二部制のローズは、このあとなんとなくスコーピウスとの関係が近づきそうだな…という雰囲気がありますが、一部制では個人の性質と「アルバスとスコーピウス」という唯一無二のふたりに対しての肯定を感じます。
スリザリンに入ってしまい疎遠になったアルバス、そしてヴォルデモートの子どもという噂のあるスコーピウスを、ローズはあまりよく思っていません。
ローズはある意味作中で一番人を分類して見ている人物です。
特に顕著なのは汽車での「友達を作る」ことについてのセリフです。

 

「誰と友達になるのか決めるのよ。(中略)わたしはグレンジャー-ウィーズリーだし、あなたはポッター。みんなが友達になりたがるわよ。よりどりみどりじゃない」

 

選民思想やめれ~というのはひとまず置いておいて、ローズは見かけや地位、人の分類にこだわっている印象を受けます。
そのローズが、そういう上辺だけのものをなくし、「アルバス」と「スコーピウス」という人間について向けた言葉であると感じるのがこのシーンです。
別に恋愛感情や描写がだめという訳ではないですが、「個人を見ること」「それを認めること」という描写になったことが、私はとても好きです。

 

 

・ラストシーンの会話の変更

「第四幕 第15場 美しい丘」でも明確にセリフが変更されています。
二部制では「スリザリンらしいか、グリフィンドールらしいか」と言った内容の会話をしているのに対し、一部制では「アルバスにとってスコーピウスは人生で一番大切な存在である」という内容に変更されました。
二部制での、ハリーの「私にはお前の頭の中は分からない。それにお前はティーンエージャーだしね」は「それがスリザリン的な思考かどうか判断できないよ」というニュアンスでした。


一部制ではこの前にアルバスが「スコーピウスは僕の人生で一番大切な人なんだ」と言っています。
ここのアルバス、恐らく一世一代の決意をした上での父親とのコミュニケーションだったんだろうなと思うんです。
今の自分が一番大切にしているものを、父親は分かってくれるのかどうか。
また否定されてしまうかもしれないという少しの不安と、分かってくれるんじゃないか、分かって欲しいよと言う切実な願い。
これを受けてのハリーの「僕はお前の頭の中は分からない」はとても余白を残した言い方だと感じています。
ハリーはこのあと「でもお前の心は分かる」と続けます。
アルバスがスコーピウスに向ける感情がなんなのか、具体的に言葉にしなくていいし、それを既存の関係に当てはめなくていい。
この一連の変更によって、「呪いの子」という物語があらゆる関係性を肯定してくれていると感じました。
ふたりの関係が、友愛でも恋愛でも家族愛のようなものでも、なんであったとしてもそれでいいよと言ってくれる。
その絶大な「肯定」がラストシーンで描かれるって、こんなすてきなことある!?!?!?


二部制でのハリーは、言葉で否定しつつアルバスのことをまだ分類しているな、と感じてしまうのですがこの変更によって父親であるハリー・ポッターが、アルバス・セブルス・ポッターという”個人”を対等に理解しようし、最大限それを伝えたと感じました。
元々「親子」というテーマはあるけれど、「父と息子」ではなくて、「ただ一人の人間同士のコミュニケーション」になったんだなと思っています。
それが本当に好きで。


第二の地平(アルバスとスコーピウスが離れ離れになった世界)で、「親」という権力を振りかざし大間違いをしてしまったハリーが、「親子」ではなく「個人」の関係にたどり着いたのが…ひたすらにすてきだと思う。
それを受けたアルバスの表情も本当に良くて…。
「父の顔」「有名人ハリー・ポッターの顔」ではなく、対等な一人の人間として自分と対話し、分からないなりにそれを肯定してくれたことへの喜びと気恥ずかしさのようなこそばゆい雰囲気を感じます。
この一連の変更、本当に大好き。

 

 

▼"あい"の物語

ハリー・ポッターは「愛」の話です。
「愛」という感情や現象が絶大な魔法の力を持つ世界で、様々な愛の形を肯定してくれたということが本当にうつくしいと思う。
別に同性愛を入れろとか、異性愛を減らせとかそういう話ではなくて。
様々な”あい”の形が世界にはあって、それは一言で表せるような簡単なものではない。
わざわざ簡単にする必要もないと思っている。
他人には理解しがたいかもしれないし、あんまり受け入れられないかもしれない。
それでも、人と人との関係性の最小単位である「ふたり」という単位を物語の中で「それでいいよ」と言ってくれるのが私は大好き。


ドラコが「一番難しいのは子どもを育てることだと言うが、そうではない。自分がどう育つのかということだ」という話をします。(セリフうろ覚えです)
これを受けて、ハリーは「良い父親と良い息子」であろうとしたことから脱し、ありのままの自分たちを受け入れること、受け入れてもらおうと努力することに至ったのだと思います。
だからこそ、ゴドリックの谷のラストでみっともなく大声で泣く姿を息子に見せられたんじゃないだろうか。
(良い父親たろうとしていたハリーはそういう感情見せなかったんじゃないかな。格好つけてそうっていうか、やっぱ「勇敢なハリー・ポッター」に自分自身が囚われてそうっていうか)

 

日本語は主語がはっきりしない分余白を脳内補完する言語だと思っていますが、「物語上の余白」を表現する上でそれが効果的だなとも感じています。
はっきり明言しないことを、なんとなくふんわりこちらが勝手に捉えることを許されていると思う。
それは東京版のために日本語訳してくださった方の言葉選びもそうだし、その言葉たちが役者の口から出てくるという現象についても言えるんじゃないかと思う。
言葉で言わない微妙なニュアンスや感情を、きちんと演者の皆さんが表現してくれている。
もう本当に全員が上手い。
この記事を書いている現在、まだヘドウィグキャストだけの公演ですが、全ての演者さんがしっかりと客席に手渡してくれているのを感じます。
物語自体のギフト、演者からのギフトそれぞれがしっかりこちらに届くというのは本当に気持ちいい。
直筆のラブレターですよ。
受け取れた!受け取ったよ!!と勝手に大はしゃぎしちゃう。

 

 

東京版呪いの子が二部制ではないと知ったときは「なんでよ~~!!」とだだをこねちゃったんですが、一部制を観た今では「これが今私が出会う物語だった」と思っています。
もちろん削られたシーン(特に第三の地平あたり)は観たかったと思うのですけど、変更前の呪いの子ではここまでハマらなかったかもしれません。(ハマったかもしれないけど(笑))
今この時、母国語で呪いの子を観られることに最大限の感謝と、あいしてるよー!を叫びたいと思います。
8月から始まるキャストシャッフルも楽しみ!