数年後の自分のための感情文

感情をバックアップするんだ

ミュージカル フランケンシュタイン 名もなき命をあいしてる

「怪物」という役への、「個」と「名前」についてのお気持ち表明です。
どうでもいいただ単に私のお気持ちの話だよ!

 

 

「解釈する過程で、その人がこれまでの人生でどんな作品を摂取してきたが如実に出る」ってすっごいワカル~!と思うのでチラホラ別作品を突然話し始めますのでご了承ください。

 

▼「怪物さん」

初演の時から、「怪物」という役名を「怪物さん」と呼んでいます。
なぜ「さん」を付けるかというと、名の無い命にせめて人間の呼び名としての固有名詞を付けたいから。
これは勝手な祈りです。祈りが重いわ。

 

初見の感想が、「怪物には名前がないんだ」でした。
そのあと原作のフランケンシュタインを読んでもともと「怪物」には名前がないことを知りました。
物語において、「名前がない」というのはそれだけで大きな意味を持っています。
そもそも「名前がない」ってことは、呼ばれる必要がないか呼ぶに値しない存在、という意味づけだと思うんですね。
呼ばれる必要がない、ってことは、人間社会で生きていないということ。
名前というのは他人と区別するための記号なんだから、その必要がないのはそういう社会的コミュニティにいないことを指している。
呼ぶに値しない、というのは奴隷とか、それこそ闘技場での怪物さんのような「人間扱いされない」存在。
人間であるということと名前があるということは割と同義だと思ってるんです。
物語に「人間」として認められない存在、それが「怪物」という役割。

 

「名前というのはこの世で一番短い呪(しゅ)である」と、夢枕獏の小説「陰陽師」の中で安倍晴明が言います。
最小単位で人を特定するものであり、他人と区別するもの。座標のような。
よくファンタジーで悪魔とか精霊とか召喚するときに名前を呼んだり、呪いをかけるのには名前が必要なのはそういう「特定」と「固定」の為だと思っている。
そしてそれはやはり呪いであると、私は思う。
「個人を特定する」機能が反転して「そうであらねばならない」に飲まれてしまうこともある。
例えば子どもへの名付なら「健やかに育つように」とか祈りが込められていたりするけど、「偉大な人になって欲しい」とかそういう過ぎたものは呪いにもなる。
特に物語において「名前」を重要視して付ける作品が好きなんだけど、キャラクター性の付与と共に物語性の付与が存在するからなんですよね。
「この物語においてどういう立ち位置・役割なのか」が表明されるのが「名前」であるので。
怪物さんには名前がない。この物語の中で彼に「与えてくれる人」はいない。
作中曲【傷】で、「どう生きて、どう恋をすればいいかもわからない」とあるけれど、「名前がない」ということと合わせて私はいつもべしゃべしゃに泣いてしまいます。

 

「名前が存在する」というのは、「呼んでくれる人がいる」ということであり「個体として誰かに認められていること」であり、「社会性のある人間である」ということ。
それらを物語に与えてもらえないのが「怪物」。
しんどい。
そんなでっかくくくらずとも、怪物さんはビクターに名前を呼ばれたかった・存在を認めてもらいたかったんじゃないの…。

 

怪物さんのことを、作中の人々は「怪物」か「アンリ」と呼ぶ。
怪物。それは個人を特定する記号だけれど「名」ではないし侮蔑と嘲りの記号。
アンリ。怪物さんの首の前の持ち主であって、怪物さんとイコールではない。
この作品の面白いのは「記憶喪失のアンリ」ではない点ですね。
解釈にもよるけど、私はアンリ≠怪物さんで別の命を宿していると思っているので。
「記憶喪失(記憶が封印されている)のアンリ」に近い描写をしてるのがアニメの「屍者の帝国」。
あっちは「生前の記憶と様々な経験を書き込むことによって元の魂を呼び起こす」感じかな。あれはあれで好き。原作と全然違うけど笑
魂の話が最高に好きなので原作を読んで。

本来別人なのに、「アンリであれ」と呼び続けるのを呪いでなくてなんと言おうか。
「アンリでなければ認めない」という意思表示ですよ。
それを執拗にやっているのがあきビク。
彼の中では同一の存在だからね…。
アンリはアンリ、怪物さんは怪物さん、という認識にはならない。
特に小西怪物さんは「自分自身を認めて欲しい」という気持ちがあるんだろうなと思ってる。
アンリではなくて、自分を。自分の自我と魂を”世界で唯一の人”に認識してほしいんだよ。

 

▼【俺は怪物】と【傷】によって確立する魂


どちらも怪物さんの心象の歌。
私の中で作中断トツしんどいソング。

「魂」はアンリとは別の、怪物さんが自らの経験によって獲得した人格のことです。
そもそもこれは私の認識の話だけど、「死者は絶対に生き返らない」のがフィクションに対するときの基本です。
幽霊とか、一時的に現れるとかはいいんだけど(いいのか?)「死んだ」存在がその後生者のように生き続けることはないっていうのが譲れない物語構造です。
摂理に反すると思ってるんで。
だからどんなペア、帰結だったとしても「アンリがアンリとして存在する」ことになったら摂理が壊れたと思う。
私の中では許されない。
それは「アンリ」が、「怪物さん」の魂を殺して得た蘇りなんだと思うんだな…。
既に生まれてしまった命を、死者が殺してほしくない…。
(それと、もし蘇りがあったとして、「生前の魂」が「生き返った魂」と同一であるかってすごく微妙なところじゃないですか。
「生前の思考パターンを元に作った仮想人格」以上になれるのかどうなのか??みたいな。なんかそういう思想の話をしてるのがめちゃ好きなんで「Dクラッカーズ」読んでください。
あとほんと伊藤計劃作品面白いよ!!私はフランケン観た後に全部読んだんだけど!)

 
【俺は怪物】


両怪物さんとも、この時には自分の自我(魂)をはっきり獲得してる。その名乗りの歌であると思う。
それがあんまりにも悲しい。
「俺は俺だ」と自ら定義するのは素晴らしいことだよ、でもそのせいで「自分は人間とは違う生き物だ」と定義してしまうのが悲しい。
そう定義しなければ生きていけなかったのが悲しい。
怪物さんって、理性が1ミリもないバーサーカーでも殺戮マシーンでもないんですよ。
理性も知性もある。
もしまともな場所で生きられたら、「人間」として在れたんじゃと思ってしまう余地がある。
けれども彼は定義した。「怪物」だと。
きっとはじめは人として生きたかったし、人として認められたかったのにそれを自ら拒否する。
「お前ら人間の方がよっぽど”怪物”だ」と言うけれど、もうこの時点では「人間ではない自分」にある種矜持を持ってるんだろうな。

原作の「怪物」は、自意識や魂の獲得・ビクターに認めてもらうことよりも「自分と同等の他者」を求めるのが面白いんですよね。
博士に花嫁を作ってくれと言うので。
世界に一人だけよりも世界に二人だけを望んだ。
設定諸々全然違うので比べられるわけではないけど、そういう違いって面白いなと思う。

 

【傷】


19日夜、1音目で涙どばっしちゃって流石に自分の情緒の心配した。

 

傷。それこそ、怪物さんを人間と隔てる大きな呪い。呪いの具現化。
「首の傷」なのもいいですよね。首輪が連想されるじゃないですか。
そんで、首輪って所有のあかしだからね…。
どこまでいっても、怪物さんは創造主であるビクターから逃げられない。

 

日によって、人によって、どの程度「アンリ」が存在するかが大きく変わる場所。
これ聞く度に、ビクターとアンリはフランケンシュタイン城で星を見てたんだろうなと思う。
同じものを見て、過ごして、語らったこともあったけど、それでももう元に戻ることなんてできないしそこに自分はいなかった。
そういう、優しい、抜けない棘みたいな記憶。

「おはなし」として語るその内容も、怪物さんにとって「おはなし」なんだと思うんですよね。
自分の体験した記憶や思い出じゃなくて、「おはなし」。

子どもの首を絞めるの、最初から殺す気はないしなんなら「いのち」を知りたくて絞めたような気がしなくもなくもない。かもしれない。
ちょっとここうまく読解できてない気はします。

ここ、例えば子どもの顔に火傷があるとか手が片方ないとか何かしらの「普通の人間」じゃない見た目をしてて、それで首を絞めるとかだったらまたしても情緒めちゃくちゃになっちゃっただろうな。
貞本版渚カヲルの文脈になっちゃう…。
生きていても辛いだけなら今殺してあげようっていう。

 

そうやって得たいのちと魂を、怪物さんはビクターに認識してもらうためだけに使う。
命を対価にして創造主に「おれはここにいる」という表明をしてるんだと受け取ってます。

周りのすべてを消せば、ビクターは怪物さんを見るしかないんだもの。

 

 

 

そもそも「同じ顔別存在」と「存在証明」の話が好きなんですよ。
そのせいでこんなに怪物さんについて考えて泣いてる。
いい加減にしたい。
怪物さんのやったことは到底許されるものではないけれど、だけど、それでも私は名もなきいのちをあいしてるよ。

 

ていうかぐだぐだ書いてたら終わらなくて爆弾投下で死んじゃった
DVD発売おめでとうございます!!!!!!!!!!!!