数年後の自分のための感情文

感情をバックアップするんだ

【ハリー・ポッターと呪いの子】魔法使いに出会ったから。

私が呪いの子を始めて観に行ったのは、2022年6月19日昼公演。
そのときは「藤原竜也がハリーだなぁ」くらいで、それ以外の役者さんについて把握していなかった。
莉生くんについても、「確か新人さんで、急遽プレビューから登板になったんだった気がする」程度。
そんな事前知識も印象も何もない状態で、板の上に立つ彼を観てただひたすら「すごい」と思った。
舞台に現れた瞬間から、その全てが「スコーピウス・マルフォイ」だった。
「芝居がうますぎる」とか、なんかもうそんなの置いておいて(というかそれは少し落ち着いてからやっと噛み締めたというか)存在全部がスコーピウスで、「生きてるスコーピウス」に会ってしまった、みたいな感覚があったと思う。
 
これは何回か観て、自分の中の衝撃みたいなものを言語化できるようになってから腑に落ちたことなのだけれど、私は「斉藤莉生のスコーピウスという解釈に負けた」、と感じたんだと気付いた。
別に勝敗を決めたいとか、勝負にすらなってないよとか、お前どこ目線なんだよとか、そういうのはちょっと横に置いておいて、「私」はそう感じた。
多分これが一番言語化として正しい言い回し。

こんな感覚初めてだったので、結構びっくりした。
舞台を観る前の時点で、脚本版呪いの子を読んでいたから、だと思う。
2016年に脚本版を読み、私なりに脚本から読み取ったアルバスやスコーピウスという存在がいて、その子たちと共に約6年くらい一緒にいたから。
私は役者じゃないし、ただの絵を描くそこらへんのオタクだ。
でもそれなりに自分のキャラ解釈があり、それなりに脚本版呪いの子のお絵描きをしていた。
東京版を観るまで舞台としての呪いの子は観たことがなかったので、私の解釈が合っているのか、的外れなのかは分からない。
それでも、こんなにとんでもない解釈強度で来られたら、降参だよ、と思った。
初手で負けを悟ったみたいな。

 

改めて「スコーピウスってこういう子なんだ」と思った。
そして、舞台役者が行う「脚本から人を作る・この世に呼び起こす」という魔法を味わった。

 

舞台の脚本は基本的にセリフや動作しかないので、どういう表情で、どういう声色で、どういう動きでそのキャラクターが生きているのか分からない。
私は私なりにそれを絵に描いていたけれど、

「舞台役者」という生身の人間が、
「斉藤莉生」という体を通してこの世にあらわれるスコーピウスという男の子が、

こんな風に存在するのか、と気圧されたような気がした。


今まで様々な役者が、「スコーピウス」という概念をその体と解釈を通してこの世に存在させてきている。
それは全て「スコーピウス」なんだけれど、「斉藤莉生」の体と解釈を通して現れたスコーピウスは、彼にしか呼び出せない。

ひたすら「参りました」と思うものの、私のスコーピウスは私の中にずっといるし今も大事な一つの解釈で、その上で「あなたのスコーピウスを見せてくれてありがとう!」「だから舞台ってめちゃくちゃ面白い!!!」って万歳しちゃうような気持ちもある。


この先日本でもいろんなスコーピウスが現われると思う。
それでも、私が初めて出会い、「負けた」と感じ、何度でも何度でも観ていたかったスコーピウスは、
莉生くんが見せてくれたスコーピウスであり続ける。この先もずっと、永遠に。